2009年5月の連休、新潟県阿賀野川流域を訪ねた。毎年この時期に「阿賀に生きるファン倶楽部」という摩訶不思議な団体が主催する水俣病の追悼集会に参加することが目的だ。おたずねしたことはないが、この会には、会則も会費も会員名簿さえないのではないだろうか。それはともかく、2009年は、水俣病事件と命をかけて闘った故川本輝夫氏の没後10周年を記念する内容だったことは、既に書いた。
追悼集会を開き続ける中心人物、旗野秀人氏とあわせて感じたことをつれづれなるままに書いてみたい。
■川本輝夫氏 ~井戸を掘った人~
1950年ころ、不知火海沿岸ではカラスや猫、人間までも狂い死ぬ奇妙な病気が現れた。異変を知った医師が保健所に「原因不明の中枢神経疾患」発生を届け出たのが1956年5月1日。この日をもって「水俣病の公式確認」と言う。当時は原因不明の奇病と呼ばれ、伝染するともいわれたため、被害者は沈黙し偏見や差別と貧困に耐えなければならなかった。
国は被害防止よりも工場生産を優先し、新日本窒素肥料株式会社(現チッソ株式会社)は原因が工場排水にあると知りながら生産を続けた。水俣病公式確認の9年後、新潟県阿賀野川流域でも有機水銀中毒が起こる。新潟水俣病である。不知火海で水俣病を起こしたのと同じ製造工程を持つ昭和電工鹿瀬工場の排水が原因だった。川本氏は、原因を知りつつ操業を続けた企業と、行政の無策が生み出した傷害殺人事件と糾弾した。
「水俣病」は「病気」ではない。チッソという会社の「傷害事件」だ。国や企業が「救済」というのもおかしい。傷害事件に対する「償い」でなければならない。そう言い続け、沈黙を続ける被害者に声を上げるよう働きかけた。そして、東京でチッソの社長を相手に直接交渉を行う。ときに、鋭い論理でたたみかけ、ときには一人の人間と人間として相対しながら語りかけた。水俣に残された家族は川本氏の闘いを支えた。地域で中傷の言葉を浴びせられ、家に火をつけられたこともあったが、あらゆる迫害に耐えた。子どもたちは牛乳配達で家計を助け、貧困もいとわなかった。
理詰めの言動、激しい行動で知られる川本氏だが、今回、土本監督の映像資料とご家族の言葉からその背景を知った。ご家族が持参した1冊の六法全書はおびただしい付箋紙が貼り付けられていた。法律を武器に訴訟を闘い、行政不服申請を重ねたことが裏付けられる。一方、海で泳ぎを教えた父親の思い出を語る愛一郎氏の言葉から、心優しい人柄が感じられる。闘いの激しさは、企業や行政への怒りだけでなく、被害者に向ける優しさから発せられたのだろう。
闘いの戦陣を駆け続けたが、その激しさ・厳しさから理解されないこともあった。皇族への誓願をめぐり、対立したエピソードを盟友、高倉史郎氏が語ってくださった。川本輝夫氏は、水俣病事件の井戸を掘り続け、生涯を閉じた。井戸を掘る人の孤独や辛さも味わいつくしたことだろう。没後10年。「ゆっくりお休みください」と心から声をおかけしたくなった。
■旗野秀人氏 ~“いい加減”を貫く多面体~
若い頃、家業の大工を継ぐのが嫌で、放浪の旅に出る癖があった。沖縄に行く途中、東京で座り込みをしていた川本輝夫氏と出会い、新潟水俣病にのめり込むきっかけとなったことから、旗野氏は今でも川本氏を師とあおぐ。
旗野氏は自らを変化球投手と呼ぶ。本業は工務店だが「阿賀に生きるファン倶楽部」や「冥土のみやげ企画」などを主宰し、新潟水俣病被害者の支援を行う。「支援」などと簡単に書いてしまったが、「旗野さんがやっていることは被害者の支援活動ですよね?」と正面から質問すれば「支援という言葉では表せない」という答えが返ってくるのではないだろうか。しかし、誰かがどこかの席で「水俣病支援団体の旗野さん」と紹介しても、にこにことしているに違いない。そして、酒が1升を越えたころ「あんたは、わかってない」と説教が始まる気がする。それは、彼のおおらかさであり、“いい加減”さである。これだけこんがらがった水俣病問題は速球のストレートだけで勝負できない。良い意味での“いい加減”さが必要なのである。「支援」と言えばわかりやすい。しかし、その活動の本質をつかんだ言葉ではない。本質をつかもうとしても「直球型表現」ではとらえきれない。だから、このブログでは「支援」でごまかす。川本さんは「救済」も嫌った。「水俣病」は病気でなく「傷害事件事件」だとも言った。そのラディカルさは、ストレートの剛速球を投げ込む本格派投手そのものである。
50年余が過ぎた今も、典型的な症状を持たないために水俣病と認定されない被害者は数知れず、未だに国や県を相手に闘い、認定を求めて続けなければならない。2004年には、最高裁判所が「国と県が被害の拡大を防がなかったのは著しく合理性を欠き違法」として、国と県に賠償を命じたが、被害者の苦しみは続き、償いがなされないまま、高齢化した人が亡くなっている。自民・公明の与党プロジェクトチームが最終解決を目指して提出した法案は被害者団体からノーをつきつけられ、未だに出口が見えない。
このような中、旗野氏は工務店と水俣病支援のどっちが本業かわからないぐらいの忙しさで走り回っている。もちろん、水俣病支援は金にならない。たまるのは請求書と領収書ばかりだとぼやきつつ、「好きなことをやっていると思えばこんな面白いことはない。やれることはいくらでもある」と言う。
被害者の支援は「面白い」と言い切った旗野さんは「冥土のみやげ企画」という団体も主宰する。例えば、未認定患者の渡辺参治さんは、歌ってさえいれば、病気の苦しみも和らぐというぐらいに歌が好きだ。旗野さんは米寿の記念に新潟のスタジオを借りてCDを作って、それを売った。ジャケットの写真はかっこ良く、ライナーノーツも素敵だ。渡辺さんは「いい冥土のみやげになった」と満足する。患者・被害者は病気や行政を相手にした闘いに苦しんでいる。しかし、苦しみの日々だけでは救いが無い。「水俣病に罹ってひどい目にあったが、悪いことばかりじゃなかった」、心からそう思える時間を少しでも増やすため、いろいろなことを考える。傑作ドキュメンタリーと評価の高い映画『阿賀に生きる』も旗野さんがいなければ生まれなかった。
患者・被害者の生活の質を高めるような支援活動は、ボランティアが最も得意とする分野に違いない。一人ひとりの暮らしに寄り添いながら、その人が一番輝いて見える舞台を作り、光をあてていく。金にはなりにくいが、やりがいのある仕事に違いない。「面白くてたまらない」という言葉もあながち誇張ではないだろう。
変化球を武器に、いろいろな方向から水俣病問題に切り込む。それが、旗野氏の運動のスタイルだ。来年の5月、阿賀の追悼集会のテーマは旗野秀人氏の還暦祝いだそうだ。全国から大勢の人が集まるに違いない。
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